舟橋家(ふなばしけ)は、明経博士清原広澄に始まる清原氏の流れを汲む公家、華族。公家としての家格は半家、華族としての爵位は子爵。船橋家とも記す。

沿革

清原家(舟橋家)は明経道を以って代々宮中に仕え、押小路家と共に明経博士と大外記を世襲した。少納言や式部少輔を経て極位極官は正二位 侍従代々天皇の侍読を務めた。

室町時代の清原業忠は広澄流清原氏で初めて公卿になり、吉田兼倶の子で業忠の養子になった清原宣賢は明経道を研究整理してとり纏めた。

宣賢の長女の智慶院は将軍足利義晴に仕えた縁で幕臣三淵晴員後室となり細川幽斎を産んだ。また宣賢の孫の清原枝賢の一女のいと(マリア)はこの大伯母の縁で細川家に出仕し、幽斎の嫡男忠興に嫁いだ明智光秀の三女たま(ガラシャ)に仕えて彼女のキリスト教への改宗に一役買った。同時代の武将で豊臣秀吉に仕え、賤ヶ岳の七本槍の一人に数えられた平野長泰は宣賢の曾孫とする説がある。

舟橋を家名としたのは枝賢の子の国賢の子で後陽成天皇と後水尾天皇の侍読を務めた秀賢ひでかたの代からである。のちに舟橋家からは伏原家が分かれ出ている。

江戸時代の家禄は400石。幕末の在賢あきかた康賢みちかた父子は廷臣八十八卿列参事件に加わっている。

明治維新後の明治2年に華族に列し、明治17年(1884年)7月7日の華族令の施行で遂賢が子爵に叙された。遂賢は京都宮殿勤當殿掌を務めた後、帝国議会開設に先駆けて行われた第一回貴族院子爵議員互選で当選、以後再選を続け、5期目の任期半ばで死去するまで34年間にわたって貴族院議員を務めた。

その子清賢も日本銀行勤務を経て襲爵後に子爵議員互選で3度当選している。彼の代に舟橋子爵家の邸宅は東京市大森区上池上町にあった。

支流

寛政譜に以下の舟(船)橋氏が見える。いずれも清原氏ではなく清和源氏を称している。

武家・茶家舟橋氏

清原宣賢の三男等貴ははじめ相国寺の僧侶だったが、還俗して吉田牧庵吉賢と名乗り、医術で世に知られた。等貴は細川幽斎の母方の叔父にあたることから、細川氏領国の丹後国田辺に住み、子孫は舟橋を称した。吉賢から4代後の舟橋希賢は、木下順庵に儒学を学び、甲府徳川家の徳川綱豊(後の6代将軍徳川家宣)に仕えて奥詰儒者となった。宝永元年(1704年)に綱豊が将軍世子となって江戸城西之御丸入りすると、それに従い廩米400俵取りの旗本となり、子孫も旗本として続いた。

希賢はまた、茶道の三斎流一尾派の一尾流の流祖である一尾伊織の高弟稲葉正喬(正倚)に師事した茶人でもあった。三斎流は以後この舟橋家で希賢 — 斉賢 — 泰賢 — 景賢 — 文賢 — 光賢 — 覚賢 — 根本魯睡(玄之) — 船橋蘆舟(左太郎)— 船橋蘆舟(直太郎)と伝承された。

医家船橋氏

舟橋秀賢の末男・長庵元理は医術を業とし、その子船橋玄晧が江戸幕府に召し出され、奥医師、御匙(将軍御典医)を務めた。子孫も同様に奥医師、御匙等を務めた(知行700石)。

系譜

脚注

参考文献

  • 浅見雅男『華族誕生 名誉と体面の明治』リブロポート、1994年(平成6年)。 
  • 小田部雄次『華族 近代日本貴族の虚像と実像』中央公論新社〈中公新書1836〉、2006年(平成18年)。ISBN 978-4121018366。 
  • 華族大鑑刊行会『華族大鑑』日本図書センター〈日本人物誌叢書7〉、1990年(平成2年)。ISBN 978-4820540342。 
  • 橋本政宣編『公家事典』吉川弘文館、2010年
  • 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成』下巻、霞会館、1996年
  • 近藤敏喬編『宮廷公家系図集覧』東京堂出版、1994年
  • 堀田正敦 編「巻第千三百八十六 清和源氏」『国立国会図書館デジタルコレクション 寛政重脩諸家譜』 第一輯、國民圖書、1922年12月30日。全国書誌番号:21329102。https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1082720/142。 

関連項目

  • 清原氏 (広澄流)
  • 式目抄

魚橋家住宅主屋 文化遺産オンライン

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12月30日。まずは世界遺産のビスカヤ橋へ。珍しい運搬橋で、上から吊るされたゴンドラ(白い箱形のやつ)がクルマや人を乗せて往復している。The

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